おばけたまにっき

たまに更新されるDJ Obakeのブログ。

走り書きのメモ・180407

誰もがそれとなく気づいている。 

無視できない違和感として、日に日に大きくなる。

 

特に、ジャンルは種々あれ、様々な作り手・送り手たちにとって、もはやはっきりと意識せざるを得ない関心事であろう。

 

先駆的に顕在化したのは音楽産業に於いてであった。

2000年代初頭、違法コピー対策としてCCCDが登場するが、10年弱のうちにこれは潰える。同時期にiTunes Storeなどのデジタル音源配信サービスの登場、YouTubeなどのストリーミング配信サイトの普及。近年ではApple MusicやSpotifyに代表される「定額聴き放題」であるストリーミングサービスがすっかり定着した。

誰もが知る通り、「音楽」はもはや「買う」ものではなくなった。正確には、音源データを購入せずとも、いくらでも音楽を聴くことが可能になったわけだが。

 

よって、作り手・送り手たちは、音楽を「売る」ことではもはや、かつてのように金銭的対価を得ることは難しい、あるいは不可能になった。

こんなことは、今更言うまでもないことであり、先に記した「はっきりと意識せざるを得ない関心事」とは、もう少し別の角度の事柄である。

 

つまりそれは、こんな感覚として要約できる。「もはやどのような音楽も『ただの音楽』でしかない」、と。

そう、もはやどのような音楽であれ…いかなるジャンルやスタイル、有名無名、大衆的か実験的か学術的か宗教的か反逆的か、を問わず…それは、ただの音楽でしかないのだ。

 

あまりにも自明なこと。

そもそものはじめから、すべての音楽は「ただの音楽」でしかない。陽の目を見るより明らかだ。ただの音の連なりであり、その配合が国や地域や生活様式、好み、によってそれぞれ違う特色を持っているに過ぎない。

しかし、今日に至るまで我々は、そこに付随する種々様々な物語を、音楽それ自体と同等か、時にはそれ以上に重要なものとして扱い、消費し、愉しむことによって、つまり音楽と物語を混同することによって、それが「ただの音楽」ではない、と信じ切っていたのである。

 

「私の音楽」。

私という個人が愛する音楽。私が作り出した音楽。どこかで聴いた、忘れがたい思い出の音楽。天才たちが奏でた音楽。生々しい息吹のこもった音楽。思わず口ずさむ馴染みの音楽。

 

なんでもよいが、すなわち「私にとっての特別な音楽」。

インターネットを開き、検索ワードを入力しクリックしてみれば、それがいかにありふれた、無数に存在する音楽の仲間たちのレパートリーの一つに過ぎないか、が瞬時に判明する。

なにせそこでは、歴史的な録音も、最先端の流行歌も、均くフラットに並べられているではないか。そして最新の話題作たちは、半年も経たずに忘れ去られ、誇りを被りながら再評価という「歴史化」を待つばかりである。

 

かくして、「私の音楽」は絶対的な価値を持つものではなく、あらゆるものの中のひとつとして、相対化された、ちっぽけなものと成り果てる。

世の中にはたくさんのものがある。なんだってある。結局、なんだっていいのだ。高尚か猥雑かを問わず、親しみやすさも難解さも、希少であろうが神格化されていようが、みんなが聴いていようが。すべては好みの自由であり、どんなに僅かな需要であろうと見逃さない現代に於いては、ニッチであっても立派なニーズとして換算されるのだから。

 

かように多様性は実現され、私たちが消費の対象物について「私の特別な」思い入れを持つことは酷く困難となった。なぜなら、相対化という魔手によって物語を剥ぎ取られたそれは、実にあっけらかんと見事なまでに、「ただの音楽」でしかなかったのだ。

そう、はじめからそうだったのだ。この事に気づいてしまうが故に、我々は戸惑うだろう。そこにあったのははじめからずっと、ただの音の連なりであったのだ。

 

先に、作り手・送り手は意識せざるを得ない、と書いたのは、正にこの事に関わる。自分が寝る間を惜しみ、丹精を込めて向き合っている当の音楽こそ、正真正銘の「ただの音楽」であるからだ。それはいずれ、無数のレパートリー、膨大なるカタログの片隅にアーカイブされる運命にある。どんなに傑作であろうと、卓越していようと、個性的であろうと。不可避に、そして作品の完成を待つまでもなく、それが One of Them であり Only One などではないのは明らかとなる。

 

ここでも、同じカラクリが働いているのだ。どんな名曲も、結局ははじめから、たくさんの似たような何かの一つに過ぎなかったのだ。ジョン・レノンの「イマジン」を、美空ひばりの「川の流れように」を、ベートーヴェンの「運命」や「第九」を、グールドのゴールドベルグ集を、他の何かと区別する手立てはもはやないのだ。

人は、ある何かを、別の何かから区別しようとしたがるものだ。たくさんの違いを挙げ、或いは明らかな非対称を見せつけて。

だが、残念ながらどうやら、すべては同じなのだ。

 

✳︎

 

音楽というひとつの芸術分野、娯楽産業に、先駆的に起こった出来事を、ざっと乱暴にだが、例証できたのではないだろうか。

先駆的、と言っているとおり、これは音楽に限らない。音楽と同じように、記録媒体と再生装置を必要とする映画が、既に現実に同様の道を辿っているのは、誰でも認めるところだろう。

 

しかし事の本質は、芸術や娯楽としての形態や依存するメディアに左右される次元にはない。小説であろうと、絵画であろうと、同じことなのだ。

それどころか、これは芸術や娯楽と言った被創作物にだけ関わる問題ではない。消費可能なあらゆる製品、商品にまで裾野を拡げても、まだ足りないだろう。

 

問題の肝は、こうである。

この出来事、避けがたい不可逆な価値観の変化を被ったのは、我々の内部にこそある。消費対象物の価値が相対化され、相変わらず魅力的だがしかし無個性な「ただの商品」に変質したのではないのだ。

 

では、消費者としての我々が変化したのだろうか。大雑把には、そうと言える。厳密には、より微妙なニュアンスでの言い現わしを必要とする。

 

消費者意識、その行動様式の変化。ここで問題にしているのは、そういったマーケッターが喜びそうな話題ではない。そうではなく、消費者たる我々が、自分が「ただの消費者」でしかない、という自明の事実に気づいてしまったことこそを問題としている。

 

実のところ、我々こそは「ただの消費者」である。それはあたかも、当たり前のこととして各自が認識し、折り合いを付けているかのように見える。ある者はそこからの脱却を誓い、著名な大物に…「ビッグに」なるだろう。ある者は消費者であることに居直り、買い物を楽しみ、また或いは趣味や(広義の)二次創作に励むだろう。

だか、どのような手立てを取ろうがいずれも均く、「ただの消費者」である。

 

なぜか。

私たちは普段、消費者としての自分には、かなりの自由があると思っている。即ち購入に於ける選択と決定の権限を。

残念ながら、消費者たる私たちには、消費という行動様式を深く内面化してしまった私たちには、わずか一択しかないのが事実だ。

「より良いものを、より安く」。この単純な命題以外に選択の基準を持たないのが、私たちなのだ。

 

「良いもの」と言っても、人によってそれはまちまちに異なる、という意見は当然あるだろう。しかしそれは易々と、「好み」=物語と、「機能」=有用性、に分解可能なのだ。私たちは自分にとって好ましくないインフォメーションをもつ商品を、それと知って選ぶことはしない。役に立たないもの、その見込みがないものも同じだ。

 

そしてまったく同じ商品であれば、少しでも「より安く」買うこと、これが消費者としての当然の態度だろう。

 

「あなたが大嫌いなアレを、無用でしょうけどより高く買いませんか?」。

これをひっくり返せば、現代のあらゆる広告のコピーと一致する。すべての広告のメタ・メッセージは結局のところ「あなたはこれを買うべきだ」という命令でしかないのだから。

 

広告がまくし立てる「まったく新しく進化した」とか「革新的なまでに洗練された」などのインフォメーションは、付加価値としての物語…その模造でありアリバイである。

簡単に例を。「なりたい自分に、なれる気がした」とか一人称で言っておけば、自分に不満のある消費者がその商品を「自主的選択によって」購入するアリバイ工作としてまずまず機能するだろう。

 

もちろん、広告内容のすべてが虚偽といっているわけではないのは、言うまでもない。

「当社比20%増量」も、「98.7%の利用者が、満足しています」も、事実なのだろう。しかしここで言いたいのは、消費者の誰ひとりとして、それが事実であるか、否かなどに、関心などないということだ。

消費者が注視している事柄はただ一点のみでしかない、「これは私の消費対象だろうか?」。

 

さてそう言ったメッセージばかり多量に目にする現代社会において、人々がいかに麻痺し、メッセージの正しい受信に対して鈍感になっているか。「愛は素晴らしい」と歌っている歌謡曲があったとして、その歌詞の内容がいかに真実であったとしても、真に受ける者はまずいない。メッセージがいかに嘘をつくかを、人々は広告から学習したのだから。

 

よって私たちは、そのメッセージの真偽は問わない。そこに含まれる真実の度合いは、自分には関係がないのだから。なぜなら、真実であるか否かは、購入の判定動機にとってはさして決定的な威力を持ち得ない、瑣末なことに過ぎないからだ。

 

アリバイとしてのインフォメーションには、逆に、私たちは大いに関心を示すだろう。

それは自分がその商品を買う、最も正当なる理由である必要があるのだ。それは購入後も、他者にその正当性を誇示し認知し承認してもらうために、是非ともなくてはならない。

場合によっては必死にすらなり、仔細に比較検討し、間違いない判断を下すべく努める。

 

だから私たちすべての消費者は、その商品にまつわる物語を希求する。

それが自分にとって、かけがえなく有用である、という物語を。

 

✳︎

 

 資本主義とは、全てを…地球上のあらゆるモノを…貨幣価値との等価交換の対象とする、魔法のような発明であった。そこでは、どんなものでも購買の対象、すなわち商品に「なることができる」。1000年前の絵画であろうと、最新式の高級車であろうと、貨幣価値という物差しを当てがう上では等価である。

差異を決定付けるのは、その商品の背後にある物語だ。(但し、原油などのエネルギー資源はこの限りではない、と思われる)

 

結局、それは物語のカタチに成形された「意味」の消費なのだ。

 

地球上のあらゆる意味を喰らい尽くす。

後期資本主義を生きる私たちの悪夢とは、これだ。

 

✳︎

 

一神教は数千年前(紀元前2000年前頃)、砂漠に生きるユダヤ人により発明された。これは他のアニミズム的な多神教と根本的に違った。その違いは、唯一絶対な全能なる存在としての創造主という神を見いだしたことに因る。アニミズム的な自然神は、文化により多少の違いはあれ、決して人間の上に絶対的に君臨するような存在ではなかった。それは自然の一部であった。

他方、一神教の世界観では、世界のすべては創造主の意志による産物と考えられた。人間の上位概念の設定であり、正しく発明と呼ぶに相応しい。

 

故に、一神教の世界では万物に意味がある。それは創造主という無限遠点との距離によって測られる。すなわち中心を持った意味体系なのである。

 

✳︎

 

資本主義的命題の全面的内面化。

我々は「ただの消費者」である。

では我々の内面奥深くに植え付けられ、自明の理となって見えないその命題とはなんだろうか?

 

それは「自己利益の追求」である。

自己利益の際限なき追求を是認すること、これが資本主義が駆動するための基本原理であり、我々が内面化した命題である。

 

「他者のために生きる」。

今日、これほどまでに白々しく響き、欺瞞に感じられ、バカバカしいと嘲られるスローガンは他にないだろう。自己利益の際限なき追求、すなわち「自分のために生きる」ことをあまりに当然のことと感ずる我々にとって、それは虚しい絵空事、綺麗事、お花畑の戯言でしかない。実際、食うか食われるかの自由競争が全面化した市場原理において、そのような理想主義はサヴァイヴの放棄すら意味するだろう。

 

だから、我々はその方途を知らない。

どうすればそのように生きられるのか知らない、自分のためにしか生きられない我々にとって、その術はまったく想像の埒外である。

 

そして、現代社会を生きる人類のほとんどすべて(と言っても過言ではないだろう)が自己利益追求型の思考しか出来ない現在とは、政治システムのトップに立つ為政者から社会の底辺層までが、まったく同じ方角を見ている世界に他ならない。

どこぞの国の大統領であろうが、一般市民たる私たちであろうが、その点では一切違いがない。自分のために生き、他人よりも少しでも幸せな人生を手に入れたいと願う点で、皆一様だ。

 

この世界は暗黙裡に、かくも全人類的合意の上で造られている。